活動レポート

リレートーク「藝・文・京」Ⅳ 歴代理事長による鼎談 ~ここから10年先の文化芸術のために~ 〔採録テキスト+動画〕

京都市芸術文化協会主催のリレートーク「藝・文・京」第4弾。 協会創立40周年を機に、歴代理事長3名がミッションやビジョンを基にこれからの文化芸術や協会の取り組みについて意見を交わしました。

 

 京都市芸術文化協会(以下、芸文協)のミッションと中期ビジョンをもとに、ここ京都における歴史的背景や現在の社会的状況を踏まえつつ、10年先の文化芸術についての展望を歴代理事長3名にお話しいただきました。

 文化芸術の実演家による会員組織としての芸文協、京都芸術センター(以下、芸術センター)の管理・運営者としての芸文協、そして公益財団法人としての芸文協、三つの役割を持つ組織としてそれぞれの主たる目的や活動形態をもちながらも、根幹にある文化芸術という営みの意義や課題を分かつことなく、大小さまざまなギアを組み合わせて生じる動力をもって、この先の未来を描かねばなりません。

 

 

 近藤 誠一(現理事長)…近藤文化・外交研究所代表/第20代文化庁長官

 建畠 晢(前理事長/現京都芸術センター館長)…詩人/美術評論家

 村井 康彦(元理事長/現顧問)…歴史学者

 

 文化芸術は社会にとって、何の役に立つのだろう。「役に立つ」といった考え方自体に問題があり、文化芸術はそこに疑義を呈するためにある——そう言い切ってしまうのは簡単だ。しかし、コロナ禍などの様々な苦難に屈することのない〈場〉を創出するためには、個人の力ではどうしようもないことが多々ある。芸術活動を営み、継続していくためにはどうしてもある程度のお金が必要であり、マネジメントも欠かせなくなってくる。現代社会では「役に立たない」と思われているものが、翻って実は役に立つのだと、社会に向けて説得的に語っていく必要もあるだろう。芸文協はまさに、役に立たないことを成していくための役に立たねばならないという、極めて難しい役割を担っていると言えるかもしれない。

 今回は、この様な問題に関して異なる視点を持つお三方に、闊達に話していただいた。村井元理事長からは文化芸術をめぐる個と集団の関係の難しさを、建畠前理事長からは現芸術センター館長という立場から問題の整理を、近藤現理事長からは文化芸術と社会をつなぐための考え方と態度をうかがうことができた。ここでの話をただ聞くだけではなく、この話を受けてわれわれ一人ひとりがどう考え、何をなすべきか、しっかりと歩みを進めていかなければならない――絶望に打ちひしがれるのでもなく、ただ楽観的に構えるのでもなく。その様な切実さを喚起させられる鼎談となった。

 

採録・構成 渡辺健一郎

 

 

歴代理事長による鼎談 ~ここから10年先の文化芸術のために

 

建畠 まず村井先生から、先生の時代の芸文協、その実態や問題点などをおきかせいただければと思います。

 

村井 極端な言い方になるのでそのつもりで聞いてください。10年前の当時から痛感しておりましたけれど、芸術センターは明倫校というこの〈場〉があり、市民にもよく知られているのに対して、芸文協は芸文協としての〈場〉を持っていないために、市民の目に触れる機会がほとんどない。芸術センターを指定管理者として持つことができたために、この場所でも自主事業など実施はしておりますけれど、芸文協とは一体どこにあるんですかと言われたら、足場を持っていないわけです。会員個々としては様々な分野の人たち、そして若い人や人間国宝になろうかというような方もいらっしゃいますが、逆説的に申せば、そういう会員の方々が、それぞれの分野、場において十二分に活躍されれば、芸文協はなくても良いというような存在であるとすら言えるのかもしれません。

 

しかし、お互い集まって話をしていく中でヒントを得るということもあります。中世には「○○聞書〔ききがき〕」と言われる文章がよく残っています。自分たちの芸に活かすために、違う分野の人たちの話を聴いて、書き残した文章です。例えば「禅鳳雑談〔ぜんぽうぞうだん〕」の聞書では、能は兵法に似ているとか、花に似ているという書き方をして、弟子に教えていたことが記録されています。違った立場であっても、違った話を聞くことによって得るものがある。文団懇(京都市文化団体懇話会)もそういうものとしてスタートしたんだと思います。そういう趣旨は芸文協も受け継いでいて、会員同士の交流を芸文協の一つの大きな目的にしていましたけれど、組織が大きくなってきて、だんだんそういうことが難しくなってきました。

 

公益財団法人化するという最後の仕事のときに、会員のみなさんの意見を聞く方法がないということで、皆さんの意見を集約するために組織内の会議体として芸術文化会議が生まれた。各分野の代表の委員を通して、様々な分野の会員全体の意見を互いに出し合うことによって、何が足りないのか、どうすれば良いのか、という議論ができるんじゃないかと、私はそれに大いなる期待をしながらここを離れたわけです。あれは十分機能しておりますか? お尋ねしたいところです。

 

私はいつも、発言がどうしても否定的なものになってしまいますけれども、前向きになるためにはまず、現実をどういうふうに認識し理解するか、何が課題なのかというところからスタートする以外にないと思っておりますので、ご容赦ください。

 

(左:村井 康彦  右:建畠 晢)

 

 

建畠 芸文協のこれまでの経緯を単刀直入に、非常に厳しい眼差しでご指摘いただいたと思います。それでは次に、近藤現理事長からご発言いただきます。

 

近藤 文化芸術の役割は、アーティストやアートを好きな方といった個々人が楽しむという、個人に関わることと同時に、社会全体の連帯のため、民主主義がより良く機能する環境を整えることにあると思います。競争意識に訴えて個人の力をめいっぱい引き出すことは重要ですが、お互いに仲間として共感力を分かち合いながら、今危機にある人間性を取り戻すということが第一でなければならない。それが今、競争ばかりが問題にされ、「勝者と敗者」といったように社会が分断されつつあるような気がいたします。その分断を食い止めるためには、やはり一人ひとりの心の持ち方が大事で、それを養ってくれるのが文化芸術の力だと思っております。

 

さて文化というのは人類にとってもともとどういう形で発展してきたのか。まだ言語が生まれる前、100万年から40万年くらい前の間に、人類は生存がかかった非常に苦しい時期にありました。人間は非常にか弱な動物で、ライオンには勝てないし、毒蛇にも勝てないし、餌もなかなか見つからない。疫病も随分多かったようで、10歳までに人口の半分が亡くなっていたそうです。そういう時代に人類は集団のサイズを大きくすることで生存能力を増していくことを考えた。5人だった家族を、10人にし、百数十人の群れにすることによって、敵から自分たちを守りやすくなる。あるものは狩りに行き、あるものは見張りに行き、そういう分担もできるようになった。そのときの手段となったのが実は音楽です。通常であれば人類は、3年間赤ちゃんを抱っこして母乳をあげなければいけない。ゴリラがそうなのだそうです。でも人口を増やすために、お母さんは一年であかちゃんを離して、二年目からまた子どもが産めるようにしなければならなかった。赤ちゃんは一歳の時に放り出されると、まだ独り立ちもできませんし、離乳食がなければ生きていけない状態ですから、それを集団保育という形でお母さん以外の人たちみんなで面倒を見るようになった。その際、まだ言葉がない時代ですから、赤ちゃんが泣いたらお母さんは抱っこしに行く代わりにハイピッチの「声」をかけることでなぐさめたそうです。それが発展して子守唄になった。世界中の民族の子守唄は全部共通性があって、ハイピッチで繰り返しが多い。集団保育で、寂しがっている赤ちゃんを子守唄でなぐさめることを通じて、共同保育の仲間たちの間で共感力と相互信頼を増していき、それが集団全体の規模の拡大を容易にしたということを、ゴリラの博士と言われる元京都大学総長の山極寿一先生から教わりました。隣の部族と出会ったときも、お互いに疑心暗鬼だったのが、歌や踊りによって共感力を持ち合うことで、お互いの信頼を高めていく。そうやって次第に部族も大きいサイズの集団になっていき、人類はかろうじて生き延びてきたということだそうです。

 

文化芸術がもともと持っていたこういう本来の力を取り戻す――それが現代の社会の課題を解決していく上で大事だろうと思います。今後芸文協は、社会全体の連帯を強化し、今起こりつつある社会の分断を防ぐという大変重要な役割を果たしていく必要がある。社会のために、税金を投入して事業を実施し、その成果を社会にお返しするということを、今後の新しい方針としていきたいと思います。

 

(近藤 誠一)

 

 

建畠 人類が生き延びるために集団を形成する、そのために文化芸術というものが発生したのだと。われわれは組織を形成するための触媒の作用を果たすという、大きな使命を担っているということになるかもしれません。今思い出したことですが、2001年の横浜トリエンナーレの芸術監督をやった時、今はなき名誉総裁の高円宮が来られて、オープニングで挨拶をされました。まず「今から30秒で芸術の歴史をお話します」とおっしゃって、「最初芸術は、神に奉仕するものであった。それから次に権力に奉仕するようになった。今は社会に奉仕するようになった」と、ウィットに富んだことを話された。ただ、いま芸術文化はもともと社会に奉仕するためにあったというお話を聞いて、なるほどとも思いました。

 

 先ほど村井先生におっしゃっていただいたように、芸文協には様々なジャンルや年齢層、人間国宝のような巨匠から、新人に近い方もいらっしゃるんですが、その幅広い人材をフェイス・トゥ・フェイスで把握するというのはなかなか難しいことなんです。ただ芸術センターは、色んな人と直に話せる人脈を芸術に関わる大きな資産として持っています。適材適所ということを考えながら色んな注文を受けるし、こちらもお願いする。そして新人を社会に送り出していくといった、マンツーマンで人材を広げていくという大きな役割を担っていると思います。最近体制が変わって、プログラムディレクターの人数を増やしたので、芸文協の先生方ともお互いの意見を交換したり、協力しあったりすることもどんどんできるようになっていくんじゃないかなと、甘い期待かもしれませんが思っております。

 

さて、やはり京都には芸術の伝統的な側面を担っている方々がいるのと同時に、前衛的な気風にみなぎっています。国際的な使命としては、重厚な伝統文化をがっちり支えて、継承していきながら、新しい視点も持っていかなければいけない。世代や分野を越えた親交というのは難しいところもありますけれども、考えていくべき課題だと思っております。村井先生、先ほどのことに少し付け加えて芸文協の将来について、ご注文やご意見があればうかがいたいと思います。

 

(建畠 晢)

 

 

村井 ここ2年間のコロナ禍で、芸能、芸術分野がある意味では最も影響を受けたんではないかと思います。それぞれの芸術文化が独自の要素を持って成立してきたのは一般的には中世後期だと言えますが、それまでは「寄り合い」が盛んだった。茶寄合とか、座の文学と言われる連歌とか、時期は下がりますけども、俳諧の世界なんかでも、やっぱり寄り合って行なっていた。そういう寄り合いの中で、だんだんとそれぞれの分野で何が一番大事ものなのかということを見出して行った。最も典型的なのは茶の湯の世界だろうと思います。茶寄合という、遊びの要素をもった中から、一対一、あるいは少人数で集まることの重要さが見いだされ、四畳半の茶室が求められるようになる。四畳半というのは、世俗を離れた出家者、隠者、遁世者たちが求めた世界です。脱俗の世界の中で、わずかの人間が集い、時間と空間をともにする中で、一期一会といった観念が茶の湯の世界でもっともはやく出てくる。お濃茶は、一碗の茶を飲みまわすという、最も人々が心を同じくする行為だったと思うんですが、これはコロナ禍では、最も避けるべきものだという風にされる。ある意味、茶の湯の本質を撃破されたようなものです。

 

茶の湯の世界では一座建立、つまり寄り合って茶会を持つことで一つの座が成り立つのだと言われます。しかし利休はみんなが一緒になってワイワイするだけじゃだめだと言う。そうではなくて、その中から人と違った自分独自のものを求めることが必要なんだと。われわれはこのコロナ禍でそれぞれの分野の芸能、あるいは芸術という行為を見直す機会を与えられたという風にも思います。

 

私はアナログ人間ですから、テレワークよりも対面に戻るのが一番本質だと思っております。やっぱり人々が集まって何かを話し合うという場を作り出すということが何よりも大事だと思います。

 

建畠 ありがとうございました。皆が意見を同じくする場所を用意するだけではなくて、それぞれの人の付和雷同しない「自分」というようなものも大事なんだというお話だったかと思います。それは確かに芸術文化のあり方にとって非常に重要な基本で、芸文協や芸術センターの運営にあたっても、頭の片隅にいつも基本的な問題として見据えなくちゃいけないことだと思っております。

 

さてそれでは、どのような方向に芸文協はあるべきか、その中で芸術センターは何にどのように寄与していくべきかという中期ビジョンについて、中心となって議論をまとめていただいた近藤理事長からおうかがいしたいと思います。

 

近藤 文化芸術の新しく認識された役割をしっかりと意識しつつ、どうやってその力を最大に生かすことができるかということを中心に考えていくと、京都市民全体の、つまり市長さんから市役所の方々、ビジネスの方々、研究者、一般の方々、すべての方の文化芸術リテラシーを上げる、ということだと思います。人類が今後生き延びていくにあたって、根底の部分にある共感力や相互信頼が大事なんだということを忘れずに日々の生活を送る上で、文化芸術が与えてくれるものは限りなく大きい。小さな組織ではありますけれども、それを全市民に納得していただくための努力をすることが大事だろうと思います。

 

ただし現代は、好むと好まざるとにかかわらず経済の仕組みに乗らないと物事は前に動かないという時代になってしまいました。したがって文化芸術が経済の仕組みに入っていって、ちゃんとビジネスになるんだという形を追求していくことではじめて、文化芸術の地位が高まり、社会に対する役割が強まっていくのだと思います。このとき芸文協の究極の目的は一般市民の方、いわゆる消費者の文化芸術リテラシーを高めることだと思います。どんなにクリエイターが良いものを創っても、どんなにサポーターがお金を出しても、結局作品が売れなければ、公演を観に来てくれなければ、社会に対する役割は十分に果たせません。

 

じゃあどうすれば良いのか。最近、非認知的能力ということがよく言われています。計算する力とか論理性ということではない、いわば感性のようなものです。子どもの頃に、言葉でもなく、理屈でもなく、学科の科目でもないことをじっくり経験することで、その子の人生が大きく変わるという研究がなされています。ジョージ・ヘックマン『幼児教育の経済学』や、OECDの『社会情動的スキル――学びに向かう力』などですね。非認知能力を高めることで、自分の感情をおさえて連帯することに喜びを見出したり、困難を乗り越えようという力が身についたりする。そうすると算数や学科の点数ですら伸び、個人の社会的成功力は高まり、更には社会全体がより結束の固い、良い社会になるということが、色んな形で証明されつつあります。したがって子どもの教育を変えていくことも必要です。京都の方々には釈迦に説法ですが、日々の生活の中に、伝統文化に根ざした文化の嗜み-挨拶から始まって、食事、仕事の仕方、人間の接し方、あるいは年中行事など全て-があって、ごく日常的に、日本の文化の素晴らしさを身につけ、世界の文化の素晴らしさから学ぶことができる環境を子供たちに与えなければならない。七夕で短冊を一緒に書くとか、ちょっとしたことからでも日常の中に文化を取り入れていくということを、子どもたちにはもちろん、大人たちにも広めていかなければならないと思います。

 

今度の中期ビジョンの中には、調査研究的なことも入っております。小さい世帯で大それた研究はできませんが、先述の研究やレポートをうまく活用して、それがどこまで日本社会で妥当するのかを分析してみる。世の中どんどん動いていますから、その動きを常時把握する研究はやらなければいけない。そういったことも市民全体の文化芸術リテラシーを高めるために今後の芸文協がとるべき道の一つかなと思います。

 

建畠 ありがとうございました。芸術は芸術のためにあるという「芸術至上主義」という考え方もあります。これは学問でいうと、「象牙の塔」ですね。大学などを批判する言葉です。ただ、感心した話があるのですが、どこかの大学の数学の先生が、開講した授業の最初に、「これから何の役にも立たないことを勉強しましょう」と言ったそうです。これは象牙の塔の最たるものですが、社会に対する批評勢力としてはそういう考えもあって良くて、一概に否定すべきものでもないと思います。芸術は社会に還元されるべきで、利益を生むんだというのは非常に結構なことだしそうあるべきですが、芸術を、利潤を生む手段としてだけ規定するのは問題だとも思います。

 

たださっき近藤理事長がおっしゃったように、芸術が何らかの形で、健全な社会の形成と維持や、あるいは違うレベルの話でいえば思考力や判断力の形成にも寄与するんだということはやっぱり重要だと思います。だからこそ我々は、税金を投じてでも芸術を振興するという、ほんのわずかな一翼を我々芸文協も芸術センターも担っているんだと思います。

 

さて京都という伝統文化の非常に重厚な街、しかも新しい文化の息吹もうずまいているような街で、芸文協、芸術センターの活動が営まれているんですけれども、京都との関係で何か、ある道標のようなものとか、そこで大きな京都ならではの役割についてはお考えがありましたらお聞かせください。

 

村井 京都は1000年を超える都市として、今日に生きています。日本の貴族文化は、大和(奈良)では育たず、平安京ではじめて成熟すると言って良いと思います。ただ、貴族文化が今日まで伝えられたのは「貴族が存在したから」ではない。貴族はある時期から力を失ってしまうのですが、そのかわり武家が集住するようになり、やがて町衆といわれる市民が成長してくる。この市民層が形成されたことによって、それまでの王朝文化、貴族文化それが受け継がれて広まりました。つまり文化というのは、時々の担い手が新たに成長してくることで伝わっていく。「伝統と創造」などと言うように、伝統というのは実は新しい階層によって絶えず作り出されていっているものなのだと思います。京都に限らず日本全体で老齢化が進み、文化の担い手、生活の担い手がだんだん少なくなってきています。しかし京都は、限られた空間の中で人々がかき混ぜられて、文化が広まり、あるいは新しいものが生まれてきた都市です。そういう意味で京都は、なかなか滅ぶものではないと思っております。

 

やはり期待するところは、若い世代です。若い人たちが、また新しいもの、前を向きながら、新しいものを生み出していく、そういう可能性は京都には十分存在していると思いますので、今までは否定的なことばっかり申してきましたが、決して絶望しているということではありません。私自身はそういうふうに前向きに考えております。

 

近藤 京都は本当に憧れの地でした。外務省の文化交流部長というポストに就いた時に、自分は文化を知らない、特に日本の文化を知らないということでもう毎週のように、週末京都にうかがって、梅原猛先生や、当時の京都大学総長であった長尾真先生などに色々教えを請いました。京都の強さは歴史が証明しています。明治4年、京都博覧会が開かれたそうですね。首都が東京に移り、京都の方々も流石に落ち込んでおられたとき、なんとか元気を取り戻そうということで京都博覧会を開き、三代目井上八千代先生が、これまでお座敷でやっていた京舞を、大舞台でやるという、伝統文化のイノベーションをされました。そういうことが積み重なって、本来の京都の力が戻ってきて、京都の方々が活気を取り戻していったという話を聞きました。時代の流れにはすぐには応じきれないのが人間だと思いますけれども、文化芸術の力が、それを乗り越えるためのリーダー役になるという、一つの例といえるかもしれません。

 

京都の方々が新しい文化に非常に前向きだっていうのも、その京都博覧会のときからだという話も聞きました。例えば漫画ミュージアムも東京にはありませんが、伝統だけじゃなく、京都という場所で新しいことにもどんどん取り組んでいく。私もご縁があって今のポストに来ておりますが、皆さんのお力で、なんとか責任を少しでも果たしていきたいと思っております。

 

 

2021年10月31日(日) 京都芸術センター講堂にて

※新型コロナウイルスの感染拡大状況を鑑み、一般非公開にて収録のみ。会場には数名の協会役員が来場。

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